【日記の最新記事】
2007年06月06日
2005年07月30日
会津より暑中お見舞い申し上げます。
暑いですねぇ。
さて、涼を求めるなら"水に浸かるか標高の高いところへ行く。"ということになりますね。
会津(猪苗代・磐梯地区)の観光情報Wabサイト 地元記者の口コミ観光情報−猪苗代・磐梯エリア! では、こんな情報が沢山掲載されています。
ピックアップして紹介しますので、是非、涼を取りにいらしてみてはいかがでしょうか。

子ども達が大好きな水遊び
中津川シャワーウォーク
涼を求めて滝めぐり
高原・限定・ウェイクボード
私の湖水浴の穴場・小石ケ浜
パノラマゴンドラ・通年運行
さて、涼を求めるなら"水に浸かるか標高の高いところへ行く。"ということになりますね。
会津(猪苗代・磐梯地区)の観光情報Wabサイト 地元記者の口コミ観光情報−猪苗代・磐梯エリア! では、こんな情報が沢山掲載されています。
ピックアップして紹介しますので、是非、涼を取りにいらしてみてはいかがでしょうか。
子ども達が大好きな水遊び
中津川シャワーウォーク
涼を求めて滝めぐり
高原・限定・ウェイクボード
私の湖水浴の穴場・小石ケ浜
パノラマゴンドラ・通年運行
2005年07月28日
焼き物の町:会津本郷
毎年8月の第1日曜日に行われる会津本郷町の「せと市」。今年の開催は8月7日です。
早朝の4時から始まり昼には終了してしまうという超朝型の市ですが、掘り出し物を買い求めようと、朝早くから大勢の買い物客でにぎわいます。
このような市が行われるのも会津本郷町は焼き物の街だからこそです。
会津若松市の南に位置する会津本郷町、この町は400年の東北で最古とも言われている歴史を持つ焼き物の街です。
その起源は文禄2年(1593)時の若松城主“蒲生氏郷”が城郭の屋根瓦の製造に、今の兵庫県より瓦工を呼び寄せたのが始まりとされ、その後、会津藩初代藩主“保科正之”が愛知県瀬戸より陶工を招き、陶器産業を奨励し益々盛んになったと言われています。
その後、江戸時代末期には有田焼のような白い焼き物(白磁器)の生産にも成功しその名は広く知れ渡ります。難しい白磁器生産、従来の産地はその製造方法を絶対に他に教えないと言います。しかし、会津本郷では、その本郷焼発展の功労者“佐藤伊兵衛”の研究努力により成功し、益々発展しました。
戊辰戦争や大火などの危機もありましたが、その技術は今も連綿と受け継がれています。

“会津本郷陶磁器会館”では、町内の窯元の作品が展示、即売されており、各窯元の作風が解ります。また、町中心部の“白鳳山公園”の入り口には(非常に狭くい解りずらいですので注意)“会津本郷焼資料館”【写真】があります。本郷焼の歴史と年代毎の作品が展示されていて、この焼き物の歩みがよく解ります。
焼き物以外にも、町の東側を流れる阿賀川の河川敷にある『せせらぎ緑地公園』には、サイト毎AC電源のとれる便利なオートキャンプキャンプ場やその近くに“湯陶里”(ゆとり)という温泉施設もあり人気スポットになっています。

また、夏になると町南部の阿賀川に"やな場"【写真】という鮎漁のしかけが出来、新鮮な鮎料理が楽しめる所もあります。
Googleローカル:窯元・会津本郷町
早朝の4時から始まり昼には終了してしまうという超朝型の市ですが、掘り出し物を買い求めようと、朝早くから大勢の買い物客でにぎわいます。
このような市が行われるのも会津本郷町は焼き物の街だからこそです。
会津若松市の南に位置する会津本郷町、この町は400年の東北で最古とも言われている歴史を持つ焼き物の街です。
その起源は文禄2年(1593)時の若松城主“蒲生氏郷”が城郭の屋根瓦の製造に、今の兵庫県より瓦工を呼び寄せたのが始まりとされ、その後、会津藩初代藩主“保科正之”が愛知県瀬戸より陶工を招き、陶器産業を奨励し益々盛んになったと言われています。
その後、江戸時代末期には有田焼のような白い焼き物(白磁器)の生産にも成功しその名は広く知れ渡ります。難しい白磁器生産、従来の産地はその製造方法を絶対に他に教えないと言います。しかし、会津本郷では、その本郷焼発展の功労者“佐藤伊兵衛”の研究努力により成功し、益々発展しました。
戊辰戦争や大火などの危機もありましたが、その技術は今も連綿と受け継がれています。

“会津本郷陶磁器会館”では、町内の窯元の作品が展示、即売されており、各窯元の作風が解ります。また、町中心部の“白鳳山公園”の入り口には(非常に狭くい解りずらいですので注意)“会津本郷焼資料館”【写真】があります。本郷焼の歴史と年代毎の作品が展示されていて、この焼き物の歩みがよく解ります。
焼き物以外にも、町の東側を流れる阿賀川の河川敷にある『せせらぎ緑地公園』には、サイト毎AC電源のとれる便利なオートキャンプキャンプ場やその近くに“湯陶里”(ゆとり)という温泉施設もあり人気スポットになっています。

また、夏になると町南部の阿賀川に"やな場"【写真】という鮎漁のしかけが出来、新鮮な鮎料理が楽しめる所もあります。
Googleローカル:窯元・会津本郷町
2005年07月27日
会津(近郊)花火大会 05'
夏と言ったら花火ですね。
この夏の会津とその近郊の花火大会を紹介します。
開催日 打上数 イベント名 開催市町村問合せ先
7月30日 10,000 第27回ふくしま花火大会 福島市 024-525-3720
7月30日 1,860 会津高原たていわ夏祭り 舘岩村 0241-78-2110
7月31日 10,000 川の祭典&日中競演夢花火大会 塩川町 0241-27-2111
8月 6日 3,000 第14回ふくやま夢花火 郡山市 024-923-0896
8月10日 2,500 霊まつり流灯花火大会 柳津町 0241-42-2346
8月12日 3,000 喜多方夏祭り納涼創作花火大会 喜多方 0241-24-5200
8月13日 2,500 磐梯まつり花火大会 猪苗代 0242-72-1415
8月14日 8,000 第34回あさか野夏祭り 郡山市 024-946-2068
8月20日 10,000 須賀川市釈迦堂川全国花火大会 須賀川 0248-75-1111
ほかにも、まだありますが、打ち上げ数で絞りました。
この夏の会津とその近郊の花火大会を紹介します。
開催日 打上数 イベント名 開催市町村問合せ先
7月30日 10,000 第27回ふくしま花火大会 福島市 024-525-3720
7月30日 1,860 会津高原たていわ夏祭り 舘岩村 0241-78-2110
7月31日 10,000 川の祭典&日中競演夢花火大会 塩川町 0241-27-2111
8月 6日 3,000 第14回ふくやま夢花火 郡山市 024-923-0896
8月10日 2,500 霊まつり流灯花火大会 柳津町 0241-42-2346
8月12日 3,000 喜多方夏祭り納涼創作花火大会 喜多方 0241-24-5200
8月13日 2,500 磐梯まつり花火大会 猪苗代 0242-72-1415
8月14日 8,000 第34回あさか野夏祭り 郡山市 024-946-2068
8月20日 10,000 須賀川市釈迦堂川全国花火大会 須賀川 0248-75-1111
ほかにも、まだありますが、打ち上げ数で絞りました。
2005年07月25日
会津の郷土料理
旅行で地方を訪れると、必ずその地の名物といわれる特産品や郷土料理がありますね。一朝一夕に名物になる訳ではなく、長い年月のなかで作られてきたものです。多くは地理的な要因と文化的な要因に由るものが多いのではないでしょうか。そんなところから会津の郷土料理を紐解いてみましょう。

写真は代表的な会津の郷土料理ですが、すこし地味でぱっとしませんね。
神仏に対する強い信仰心や安定した地方藩政による教育指導から育まれた質素でつつましい日常生活のなかから生まれたものと想像できます。また、地理的な要因で輸送や保存に適した素材に由る事もあるでしょう。
代表的な料理は、棒たら・ニシンの山椒漬け・こづゆ などです。
「棒たら」というのは、北海道で獲れた鱈の頭と内臓、骨をとって身だけを乾燥して棒のように固くしたものなので"棒のような鱈"という意味です。昔は冷蔵庫や真空パックがなかったので生の魚を海から遠い地方に送るには、乾燥させるか塩漬けにして保存するしかなかったのです。
会津は海から遠かったのでこのような方法で、北海道から北前船で新潟に荷揚げされた棒たらは、阿賀野川をさかのぼって会津に送られました。
これと同じような方法でやってきたものに「ニシンの山椒漬け」で有名な身欠きニシンやスルメ、"こづゆ"に使われるホタテ貝の貝柱などがあります。冬になって乏しくなる蛋白源として、棒たらを水で戻して、煮物に使ったのでしょう。
「こづゆ」とは、会津地方では祝いの席に必ず出た所謂"晴れ"の料理で、地域によって「ざく煮」「煮しめ」と呼ばれていました。地域により少しずつ調理方法は違いますが、基本的には貝柱でだしを取って、キノコや玉麩、タケノコ、里芋などを入れて薄あじに仕立てた上品な味です。別名「祝いざかな」ということもあります。材料は里芋、人参、きくらげ、糸コンニャク、まめ麩などがどこでも共通ですが、地方毎に鶏肉を入れたり、ちくわが入ったりします。これを朱塗りの器で振舞うのが一般的です。
しかし、昔から武士や庶民ともにこのような食事だったかというと、そうではないようです。では武士階級は何を食べていたか?というと、京都風であったということ以外、詳しい記録がほとんど残っていません。その理由は戊辰戦争に敗れ、下北半島、斗南藩への転封といった大混乱の中で失われたと考えられています。
Googleローカル:郷土料理・会津若松
写真は代表的な会津の郷土料理ですが、すこし地味でぱっとしませんね。
神仏に対する強い信仰心や安定した地方藩政による教育指導から育まれた質素でつつましい日常生活のなかから生まれたものと想像できます。また、地理的な要因で輸送や保存に適した素材に由る事もあるでしょう。
代表的な料理は、棒たら・ニシンの山椒漬け・こづゆ などです。
「棒たら」というのは、北海道で獲れた鱈の頭と内臓、骨をとって身だけを乾燥して棒のように固くしたものなので"棒のような鱈"という意味です。昔は冷蔵庫や真空パックがなかったので生の魚を海から遠い地方に送るには、乾燥させるか塩漬けにして保存するしかなかったのです。
会津は海から遠かったのでこのような方法で、北海道から北前船で新潟に荷揚げされた棒たらは、阿賀野川をさかのぼって会津に送られました。
これと同じような方法でやってきたものに「ニシンの山椒漬け」で有名な身欠きニシンやスルメ、"こづゆ"に使われるホタテ貝の貝柱などがあります。冬になって乏しくなる蛋白源として、棒たらを水で戻して、煮物に使ったのでしょう。
「こづゆ」とは、会津地方では祝いの席に必ず出た所謂"晴れ"の料理で、地域によって「ざく煮」「煮しめ」と呼ばれていました。地域により少しずつ調理方法は違いますが、基本的には貝柱でだしを取って、キノコや玉麩、タケノコ、里芋などを入れて薄あじに仕立てた上品な味です。別名「祝いざかな」ということもあります。材料は里芋、人参、きくらげ、糸コンニャク、まめ麩などがどこでも共通ですが、地方毎に鶏肉を入れたり、ちくわが入ったりします。これを朱塗りの器で振舞うのが一般的です。
しかし、昔から武士や庶民ともにこのような食事だったかというと、そうではないようです。では武士階級は何を食べていたか?というと、京都風であったということ以外、詳しい記録がほとんど残っていません。その理由は戊辰戦争に敗れ、下北半島、斗南藩への転封といった大混乱の中で失われたと考えられています。
Googleローカル:郷土料理・会津若松
2005年07月24日
裏磐梯五色沼
会津で最も有名な観光地の一つ裏磐梯の五色沼。今回は、その沼色の不思議について紹介します。

五色沼は、美しい青を基調に白色が混じった複雑な色でお馴染みですが、これは水の色そのものではなく、水中に多量に含まれている非常に小さい粒子による光の散乱であると考えられています。
その粒子の正体は、磐梯山の噴火 口付近にある銅沼(あかぬま)から供給されるアロフェンといわれる物質。これはケイ酸アルミニウムの結晶していない微粒子で、粒子が小さければ光が通過していまい無色に見えますが、ある程度の大きさになると波長の短い青い光だけが散乱されて水が青く見えます。粒子がさらに大きくなるとすべての光を散乱するので水が白く見えるというわけです。

アロフェンは酸性が強いと生成しにくく、本来、酸性の強い銅沼の水だけでは出現しないはずなのですが、五色沼に流れ込むまでにアルカリ性の温泉水が加わることで徐々に中和され、アロフェン粒子が誕生します。五色沼には青以外にも、赤や茶などの水の色がありますが、これは沼の底やコケ類の表面に沈殿した酸化鉄などの赤褐色系の色が作用しているものです。自然の偶然が作り出している色なのですね。
沼ごとに水質や深 さなどによって色は微妙に異なりますので、一度、実際に歩いて観賞してみませんか。ほぼ平坦な遊歩道は片道約3.6km、70分です。
さて、沼と共に見事な彩りを見せる周りの木々ですが、昔からここに自生していたのでしょうか?実はそうではないのです。1888年の磐梯山の大噴火により裏磐梯一帯は、火山灰や泥流で埋めつくされた不毛の原野だったのです。そこに遠藤十次郎という会津若松の商人が私財を投げ打って植林を行い現在の姿になりました。また彼の植林を手伝った中村弥六は、沼の一つにその名を残しています。
前に紹介した、鶴ヶ城の遠藤 敬止然り、当時は後世の為、人の為、私財を投げ打つ人々が多くいたんですね。
ちなみに、吾妻連峰・一切経山にも五色沼と言う名の沼があります。
Googleローカル:北塩原・五色沼
五色沼は、美しい青を基調に白色が混じった複雑な色でお馴染みですが、これは水の色そのものではなく、水中に多量に含まれている非常に小さい粒子による光の散乱であると考えられています。
その粒子の正体は、磐梯山の噴火 口付近にある銅沼(あかぬま)から供給されるアロフェンといわれる物質。これはケイ酸アルミニウムの結晶していない微粒子で、粒子が小さければ光が通過していまい無色に見えますが、ある程度の大きさになると波長の短い青い光だけが散乱されて水が青く見えます。粒子がさらに大きくなるとすべての光を散乱するので水が白く見えるというわけです。
アロフェンは酸性が強いと生成しにくく、本来、酸性の強い銅沼の水だけでは出現しないはずなのですが、五色沼に流れ込むまでにアルカリ性の温泉水が加わることで徐々に中和され、アロフェン粒子が誕生します。五色沼には青以外にも、赤や茶などの水の色がありますが、これは沼の底やコケ類の表面に沈殿した酸化鉄などの赤褐色系の色が作用しているものです。自然の偶然が作り出している色なのですね。
沼ごとに水質や深 さなどによって色は微妙に異なりますので、一度、実際に歩いて観賞してみませんか。ほぼ平坦な遊歩道は片道約3.6km、70分です。
さて、沼と共に見事な彩りを見せる周りの木々ですが、昔からここに自生していたのでしょうか?実はそうではないのです。1888年の磐梯山の大噴火により裏磐梯一帯は、火山灰や泥流で埋めつくされた不毛の原野だったのです。そこに遠藤十次郎という会津若松の商人が私財を投げ打って植林を行い現在の姿になりました。また彼の植林を手伝った中村弥六は、沼の一つにその名を残しています。
前に紹介した、鶴ヶ城の遠藤 敬止然り、当時は後世の為、人の為、私財を投げ打つ人々が多くいたんですね。
ちなみに、吾妻連峰・一切経山にも五色沼と言う名の沼があります。
Googleローカル:北塩原・五色沼
2005年07月23日
鶴ヶ城(会津若松城)

「鶴ヶ城」またの名を「会津若松城」。現在の天守閣は、昭和40年に復元されたものです。戊辰“会津戦争”で不落を誇ったこの城も無数の砲弾を浴び傷だらけになりました。天守閣は、明治7年までその姿を残していましたが、荒廃は進む一方で維持費もままならず、ついに取り壊されます。城址も民間に払い下げのため、入札となりました。
これを当時と しては大金の¥2,500で落札したのが、会津藩士“遠藤 敬止”です。自らも会津戦争時篭城し、戦い抜いた後、苦学の末、経済の道で成功を収め、仙台七十七銀行の頭取になった人物です。敬止は、この落札した城址を、旧会津藩主松平家へ献納します。その後、会津若松市へ譲渡され、今日の観光名所になったのです。ちなみに北出丸に“遠藤 敬止”の偉業を称える石碑があります。
それでは、お城観光の一例を紹介します。
東山温泉方向より城付近へ来ると、県立会津博物館があります、その向かいに三ノ丸駐車場があります。ここから城内へ入って見ましょう。駐車場より橋を渡り二ノ丸に入ります、右手奥にクレーのテニスコートが見えますが、ここは当時“伏兵郭”といい篭城戦時は城内で戦死した者を埋葬したと言われています。
つづいて“廊下橋”を渡ります、昔はこの橋に屋根があったと言われこの名が付きました。 さらに進むと天守閣などがある本丸に入ります、天守閣は入閣可能で、階段で天守最上部へ登ることができます。拝観入り口は、中へ入ると薄暗い倉庫のような所です。それもそのはず、当時も塩倉と呼ばれる塩の貯蔵庫だったのです。

お城の外もちょっと見てみましょう。天守閣だけ石垣が、他の石垣とちょっと違っています。“野面積み”と言われ、整形されていない丸みの残る石が積み重なっています。これは、安土桃山時代に当時の城主“蒲生氏郷”が築いた時のものです。そんなに古いもので大丈夫なの?と思われるかもしれませんが、ご安心下さい。現在の天守閣は、50メートルを超える鉄柱が数本地中より立っており、石垣に負担の掛からないようになっているのです。
天守閣より繋がる長い白い壁は“走り長屋”と呼ばれ武器の貯蔵庫でした。その端の方に“鉄門”があります。文字通り鉄を貼った門です。戊辰戦争時、西軍は城の東、小田山より砲撃を加えていたので、この強固な門の影で砲弾を避け藩主が指揮をとったと言われています。
再び天守閣前の本丸ですが、今は芝生が生い茂り、訪れる人の憩いの場になっている本丸は、当時“本丸御殿”と言い沢山のお屋敷が立ち並んでいました。しかし、そのほとんどが戦火で焼失、今は礎石のみ残っています。唯一残った“御三階”と呼ばれる会津藩の重役の会議室と言われる建物が、市内“阿弥陀寺”に移築されて今も残っています。
本丸の一角に“麟閣”という茶室が建っていますが、これはかの“千利休”の子“少庵”が建てたものです。秀吉の命により突如自刃した利休、その後一族は四方へ散って行きます、少庵も利休門下の茶人として名高かった、当時の会津城主(前出の)“蒲生 氏郷”を頼るように、会津へ逃れてきます。氏郷も彼を 手厚く匿いました、氏郷の命により“数奇屋”麟閣を建て、平穏に茶の道に励みます。さらに氏郷は家康を通じ、少庵の赦免を願い出ます。秀吉はこれを許し、ついに千家は復興なったのでした。ひっそりと佇む茶室ですが、こんな歴史も隠れているんですね。会津はそんな歴史の宝庫でもあるのです。
Googleローカル:鶴ヶ城・会津若松
2005年07月22日
何故会津?
会津の地名の由来について有名なのが『古事記』の一説より「時の天皇が諸国平定のため遣わした、オオヒコノミコト、タケヌカワワケノミコトが別ルートで北上しこの地で再会した」というものです。再会ということで“会”の意味はわかりますが“津”はどういう意味でしょう?
“津”とは水辺を意味する文字です。山というイメージが強い会津ですが水の豊かな土地だったのでしょう。現在も阿賀野川をはじめ大小の川が流れ水は豊富な土地です。また、一説には会津盆地は太古は湖でその後しばらくは、湿地帯だったと言う説もあります。
この説は、日本の一級品の古書に登場しているもので(東北ではもっとも古い)会津の歴史の古さを象徴するものとして、誇りをもって言い伝えられてきたものです。しかし、この説はあくまで“神話:物語”の粋です。資料的な裏付けがありません。
また、古代会津を調べる郷土史家の方の興味深い説もあります。九州の漁猟民族:安曇族(あずみ)の移住説です。
魚猟から農耕へ生活様式を変えて行くなか、良い土地をもとめ内陸へ行こうとすると、そこには先に狩猟より農耕民族に変わり、ゆくゆくは国家を制定してゆく大和族がいます。この大和民族と反りが合わず新天地をもとめ日本海を北上し、今の新潟県あたりに上陸し川を上り四方へ移住していきます。
そのひとつは、信州諏訪の地に安曇野の地名を残したと言われていますしまた別のグループは阿賀野川を上り“会津”に入ってきたといいます。
“会津”をはじめ“阿賀”“吾妻(あづま)”や福島の地名に残る“安積”(あさか)“安達”(あだち)などは、安曇族の言葉に語源があると言われています。
会津若松市にある四世紀末の豪族の墓と伝えられる“大塚山古墳”その古墳に埋葬されている副葬品の鏡や太刀は、「大和朝廷から送られたもの。」と思われ来ました。しかし、埋葬形式が当地と違っていたり、副葬品の生産地が大和の物とは違っているようです。このことから会津は、大和以外の違った権力との繋がりがあったのでは?とみる考えもあります。
いずれにしても、古くから人々が集まっていた土地であるのは間違いなさそうですが、その詳細が明らかになるには新たな発見を待たなければならないようです。
Googleローカル:大塚山古墳
“津”とは水辺を意味する文字です。山というイメージが強い会津ですが水の豊かな土地だったのでしょう。現在も阿賀野川をはじめ大小の川が流れ水は豊富な土地です。また、一説には会津盆地は太古は湖でその後しばらくは、湿地帯だったと言う説もあります。
この説は、日本の一級品の古書に登場しているもので(東北ではもっとも古い)会津の歴史の古さを象徴するものとして、誇りをもって言い伝えられてきたものです。しかし、この説はあくまで“神話:物語”の粋です。資料的な裏付けがありません。
また、古代会津を調べる郷土史家の方の興味深い説もあります。九州の漁猟民族:安曇族(あずみ)の移住説です。
魚猟から農耕へ生活様式を変えて行くなか、良い土地をもとめ内陸へ行こうとすると、そこには先に狩猟より農耕民族に変わり、ゆくゆくは国家を制定してゆく大和族がいます。この大和民族と反りが合わず新天地をもとめ日本海を北上し、今の新潟県あたりに上陸し川を上り四方へ移住していきます。
そのひとつは、信州諏訪の地に安曇野の地名を残したと言われていますしまた別のグループは阿賀野川を上り“会津”に入ってきたといいます。
“会津”をはじめ“阿賀”“吾妻(あづま)”や福島の地名に残る“安積”(あさか)“安達”(あだち)などは、安曇族の言葉に語源があると言われています。
会津若松市にある四世紀末の豪族の墓と伝えられる“大塚山古墳”その古墳に埋葬されている副葬品の鏡や太刀は、「大和朝廷から送られたもの。」と思われ来ました。しかし、埋葬形式が当地と違っていたり、副葬品の生産地が大和の物とは違っているようです。このことから会津は、大和以外の違った権力との繋がりがあったのでは?とみる考えもあります。
いずれにしても、古くから人々が集まっていた土地であるのは間違いなさそうですが、その詳細が明らかになるには新たな発見を待たなければならないようです。
Googleローカル:大塚山古墳

